〈→その矢印はどこを指す←〉
学生時代にお世話になった恩師・K先生。在学中、研究室の引越しのため、書籍を学生・院生に譲っちゃうよコーナーが設けられた。研究室の本棚にびっちり詰まった書籍の中から「ほしいのがあれば好きに持って行っていいよ」とおっしゃるのだ。
先生が他大学へ移ってしまうのは残念であったが、私は先生の蔵書をいただけるという機会に内心興奮した。
私は「社会学の基礎知識」(有斐閣)を選んだ。理由は2つ。社会学研究の基礎項目が網羅され解説されている本であること(今後役立ちそうだから)。2つ目は、見た目が好みだから。朱色の表紙、黒いインクがかすれた明朝体のタイトル。ページがいい感じに茶ばんで年季を感じさせる。さらに、裏表紙に直筆で先生の名前が書いてあること。所有者、しかもその道の研究者の痕跡が残る書籍をいただけるなんて、こんな貴重な機会はない。誰かが大切にしていたものを引き継ぐということへの感慨と、これが自分の本棚に並ぶと一気に学生っぽくなるのではというワクワク感(チャラい理由だ)。
卒業してからも、先生とは細く緩く、お付き合いを続けさせていただいている。
「矢印」を研究したK先生の論文を拝読したのは、つい最近のことだ。
日本は矢印大国だ。意識してみると、あちこちに、方向を示し行動を促すための矢印が散見している。駅、バス停留所、役所、ショッピングセンター、エレベーター、ごみ箱etc.
東京メトロの駅構内で、「○○線」の文字の隣の、"U"を逆さまにしたような山形の矢印に惑わされたことはないだろうか。私はある。Uターンするのか、逆方向なのか、少し前進して後方へ戻るのか。初めてだと全くわからない。方向音痴を極めている私は、都心の構内で右往左往して結局駅員さんや道行くご婦人に尋ねることになる。ホームの階段のそばの「○○線↑」表示が「階段をのぼれ」を指すのか「のぼらずホームを直進」を指すのか、私にはいまだにわからない。矢印は、デザイナー泣かせだ。
でも逆に、矢印をうまく配置するとスムーズに行動を促せる。論文では、ジュース販売スタンドのごみ箱の、ごみ分別を促す矢印表示のビフォー&アフターが載っていた。矢印の配置、色、文言、それらを上手くデザインすればユーザーの行動が変わる。面白い事例だった。
また、辞書では味気ない説明しかされていないと先生が嘆いている「矢印」だが、学生の本分を示唆する「人生の道案内」的な使われ方をしている例も論文には記載されていた。先生は、ひそかに「人生の矢印」と呼んでいたという。
大学へ通う学生たちが、駅反対側にある魅惑のパチンコ屋に向かわず駅へ直行するために・それを見守っている地域住民の視線を感じさせるために、こうデザインされたのだろうか。
そう考えながら矢印論文を読んでいたら、思い出したことがある。
大学生の時に、ひょんなことからデザインのお仕事に関われることになった私は、まだ鉛筆やペンでしか絵を書いたことがなかった。でも幸運なことに、一緒にそのお仕事をさせてもらうシステム会社の社長さんがとても親切な方で、パソコンでの絵の描き方を教わったり、デザインについて色々な考えを教えてもらえた。その方とのやりとりのなかで
「たんかめさん、デザインって、人を幸せにするためにあるんだよ」
と言われたことがある。デザインが、人を、幸せにする???(これについての解釈は別の機会に書くとして。)
論文に出てくるこの「人生の矢印」の看板は、単に大学から駅への道順を示してあるだけではない。「大学生の身分でいられる貴重な期間の"充実"とはなにか」つまり「自分が"幸せ"を感じるためにどう行動すべきか」を投げかけるデザインだと思う。パチンコを悪者にする訳ではないが、パチンコで失ったお金と時間は戻らないから、代わりに矢印の先に向かおうと呼びかけているようだ。
道案内を模したから「駅」とあるのだろうけど、そこは「図書館」「バイト」「ひと」「目標」でもなんでも、各々が学生生活を幸福なものにするための言葉が入るんだろう。
今日ちょうど読了した小説「舟を編む」(三浦しをん・著)の主人公・辞書編纂の編集部主任 馬締光也さんがこの研究論文を知り、新しく編む辞書に「矢印」の解説を載せるとしたらなんと載せるのだろう。そしてその「矢印」の項をK先生が執筆担当するとしたら、なんて書くのだろう。
SNSで「←」と文末に書くと自分で自分にツッコミをいれたニュアンスになる。例えば「今日も俺は天才←」のように。この用例も辞書に載せますか?「現代用語の基礎知識」向けかな?こうして、空想が頭を巡る。
★★★
たんかめは馬締のデスクに足早に近づくと原稿を渡し、こう切り出した。
「馬締さん、『矢印』の語義に2と3を加えたいと思うんです」
‐‐--‐‐‐‐‐-‐‐--‐‐‐‐‐-‐‐‐‐‐
や-じるし【矢印】1 方向・道筋を示すための、矢の形をしたしるし。2 目線を目標物に転じさせる仕掛け。3 「なんちゃって」の意。
‐‐--‐‐‐‐‐-‐‐--‐‐‐‐‐-‐‐‐‐‐
馬締は表情ひとつ変えず、原稿に目線を落としたまま口を開いた。
「たんかめさん、用例採集カードには、2と3は載っていますか」
「いえ、すみません自分で勝手に考えました。」
「これでは原稿の精度としては不安が残ります。K先生に至急確認をとってください」
「はい!行ってきます!」
たんかめは自分のデスクに戻り鞄をひったくるようにして、勢いよく編集部を出た。馬締も再び誤植のチェックに戻る。「なんちゃって、か」馬締は大きく伸びをしながら急に色付いた窓の外の紅葉を眺めた。
★★★
ワインのおかわりが続く限り、私の空想はとまらない。
↓↓論文はこちらから↓↓(あ、矢印だ)
▶︎矢印はすすり泣いている:記号の楽しみ2 (川浦康至)