〈行きずりの作法〉
知らない人との行きずりの会話が好きだ。
バスや電車で隣り合ったり、病院の待合室で話したり。
小説のように、行きずりがドラマを織りなすようなことは実際には全然ないけれど、あの、普段の私でなくても良い、気楽で何者にもなれる時間が好きだ。
何年も前のこと。
渋谷駅西口、バスロータリーの横断歩道でひとり信号待ちをしていたら、年配のご婦人が私の腰のあたりを見つめ、次に私の顔を見つめ、そして私に近づいてきた。
その時私は、斜めがけの鞄を提げていて、腰の位置には結構おかしなデザインのキーホルダーを付けていた。
にこやかに話しかけてきたので、キーホルダーの話をされるのかなと思ったけど、ご婦人は
「アンテノールがお好きなの?」
と聞いてきた。私は鞄の他に、洋菓子店アンテノールの紙袋を持っていた。
袋の中には、自宅の冷蔵庫で冷やしていた苺が1パック。
苺のパックがすっぽり入る分だけのまちがあって、底に保冷剤を敷いても頑丈そうなものを家で探したら、アンテノールの紙袋になったのだった。
私は、アンテノールと聞いてすぐにピンとくるケーキやお菓子が一つもないんだけども、「中身は苺です」と言うのも正直すぎて味気ないし、それよりは横断歩道を渡り切るまでの数十秒の会話をこの人と続かせたくなったので
「はい、大好きなんです」
と調子の良い嘘をついた。
ご婦人は嬉しそうに、
「私の孫もね、アンテノールが大好きなのよ。いつもねだられるの。」
と言って私と一緒に渡り始めた。やっぱり。アンテノールにまつわるエピソードをお持ちだったんだ。
「そうなんですね。種類もたくさんあって、目移りしちゃいますよね。」
調子を合わせる。
「なんだか最近の若い人は、贅沢ね。」
贅沢と言われても嫌味に聞こえない上品さが、その人にはあった。
「あ、でも私がこれを買えるのは、誰かへの手土産の時とかだけですけどね。」
私は笑って、苺の上にかけたハンカチが見えないように、紙袋を身体の陰にやった。
横断歩道があと少し、どう切り上げよう…と思ったとき、私の思いを察してかご婦人は
「突然お引き留めしてごめんなさいね」
と言って、歩くペースをわざとらしくない程度に私よりも若干遅くした。
「いえいえ。ではまた。」(またなんて、ないのに)
私も軽く会釈をして、ひとりで横断歩道を渡り終えた。
ほんの少しの非日常を味わう。知らない人との行きずりの会話だった。
私はこれが好きだなと、その時に知った。
取り立てて中身はなく、共感が主で、数秒でオチをつける。
それが行きずりの作法なんだと、この知らないご婦人に教わった。