〈愛を込めて花束を〉
気ままに書き散らしているのが好きだ。書き終えると毒がスーッと抜かれている。
SNSとしては用途が中途半端なこの「LINEのタイムライン機能」に書いて、一体何人の方の目に留まっているんだろう。
なのに、こうしてぼちぼち書き続けられるのは、私が単に図太い変人だからだろう。
しかし書くという行為は、それに費やす時間の濃度がハッキリしているし、仕上がったものがちゃんと手元に残るっていうのがいい。
大学の教養科目「ラテン語」の教科書に
《言葉は飛び去る、文字はとどまる》
という例文があった。
ラテン語自体はさっっっぱり身についてないけれど、この表現にはハッとしメモしたので覚えている。
話し言葉は、発した瞬間に消えている。
文字は、媒体に刻まれて残る。
飛び去る言葉、とどまる文字。
清少納言が、周りの女房からいじめられ引きこもっているとき、仕えている中宮定子さまから真っ白な紙の束が届いたという。
敬愛する定子さまからのプレゼントでありそれが当時貴重な白い紙ということで、清少納言は
「おかげさまで寿命が千年のびました」
といって大層喜んだ。
…これは、何のエピソードか出典を忘れたけれど、紙(文字を書き留めるもの)の存在は、命を延ばすと言い表す程にありがたきものだったんだ。
医療も発達してなくて自身の余命すら予想がつかず、清少納言ほどに知的でセンスに溢れた人でありながら狭い世界でしか生きられない人生。
そんな中で自分の思いの軌跡を残せるというのは、どれだけ嬉しいことだったろう。
実際、千年も前に紡がれた文学が紙に書かれていたから、清少納言の寿命は千年(より、これから先きっともっと)延びているのだ。
文字としてとどまったおかげで、清少納言は令和でも生き続けている。ありがとう、紙と文字。
特にコロナ禍の今、彼女が枕草子に綴った「をかし(めっちゃいい)」を含む賛美のあり方は、対象を見る眼の解像度が上がり幸福度が増していくように感じる。
生きていることへの祝福だ。
枕草子の第一段の話をしていて「をかし」「いとをかし」を連発していたら、子Bが
「もうおやつの時間?」
と聞いてきた。「をかし=お菓子」と思ったようだ。
こんなことですら、幸運を味わう。家族は生きている、私も生きている。
「読書は楽しいよ。自分は自分の人生しか生きられないけど、本を読めば、書かれている人の人生を生きてみる事ができるから」
と子Aが言うので
「すごい、それ、よく気づいたね」
と感激したが、実はそうこども達に伝えたのは、過去の私らしい。
まるで覚えていない。言葉が自身の記憶から飛び去ってしまった。子Aが
「なんでお母さんは、自分が言った事なのにしょっちゅう忘れるんだろ。」
とぶつくさ言いながら
「実はお母さんにはAとBがいて時々交替してるんだけど、引継ぎがうまく行っていない」
という仮説を立てていた。大きなお世話だ、引継ぎは下手だけど私は1人だ。
文字にしなくても、話し言葉がとどまる場合って何だろう。
「褒め言葉は、時間にすると1分にも満たないのに、その後何十年経っても相手の糧となって生き続ける。言葉というのはこういうもののためにあるんだろうなと思う。」
という人がいた、本当におっしゃる通りだ。
心ない言葉で誰かを刺しちゃう事もあるけど、昔に掛けられた言葉が自分を支えてくれることは確かにある。
だとすれば、話し言葉もとどまっている。口にしないと共有できないけれども、飛び去り空気に紛れる前に、受け手の中にガッチリととどまることもある。
《文字はとどまる。言葉は飛び去り、時にとどまる。》
「好き」とか「めっちゃいい」とか「素敵だね」とか、お喋りでも手紙でもメールでも手話でもジェスチャーでも、何かしらの手段で言葉が交わされあって、温かく心にとどまり続けるなら。
「をかし」と思う人がその心を温めるなら、とどめて、どんどん、そのとどまった言葉に囲まれ、認められ、満たされていけたらいい。
花束みたいに豊かな言葉を。