たんぽぽ仮面のタイムライン

言葉と絵とお酒にムズムズします

〈無駄なこと〉

先日のタイムラインで、苦労を売るか買うかの話をして思ったんだけど。

私は、「苦労」は欲しい人がいれば喜んで譲るけど「無駄」は買うかもしれないなぁ。

でも、「無駄」は買うけど、「無駄な苦労」は買わない。

無駄と言っても、与えられた「無駄」は嫌い、自ら意図して選んだ「無駄」は好き。

この辺のラインが分かり、一人で勝手にすっきりしている。


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今日歩いている時に不意に思い出したのは、

「人間ってもっと無駄なことしてるんじゃない?」

という一言だった。

芝居の稽古で、演出家が役者に言っていたことだ。

それは『自分の部屋で、携帯電話で一通り話をしてから通話を終える』という一連の演技についての指導で出た言葉だった。


役者が、脚本のト書き通り『電話の『切』ボタンを押す』しかしなかったからだ。

『切』ボタンを押した後、意味もなく携帯を操作したり見つめたりすることはないか。

話しながら髪の毛を触ることはないか。

話しながらものの整理をしたり、探しものをすることはないか。


その演出家は、ホットケーキは始めに真半分に切れ目を入れてから食べると言った。

なんでそんなことするのかと聞かれても、よく分からないと答えるしかないそうだ。

そんな、意味のない無駄なことって、普段色々やっているんじゃないの、と。


なるほどなぁ。

そのお芝居は、長編ストーリーものというより、短編集で日常の空気感を重視していたから、そういう指導だったのかもしれない。


そうやって、舞台の上で行われていることは全て意味付けされていると学んだので、モノの配置から照明から音から、役者の目線や仕草から、出来るだけ全ての演出意図を汲もうとしながら観るようになった。鑑賞後はグッタリだ。

まさに「麒麟がくる」なんて、カメラワークや照明がけっこうお喋りで見応えがあるよね。


芝居のなかでは、観劇者視聴者に伝えるために、意図から外れるような無駄は除かれているってことだ。

けれど、人の生き方においては、その演出家が指摘したように、無駄なこと・さして意味のないことは「込み」だ。

ということは無駄なことって、案外無駄じゃないんじゃないかな、と感じる。

無駄な時間と思えるものが、結果的にリフレッシュになってたとか、後々役に立ったなんてこともあるし。

(繰り返すが、無駄な苦労・無駄な作業に関してはこの限りではない)


効率が良すぎたり、削ぎ落としすぎるのは、洗練とは言えないのかもしれない。

ちょっとした隙が可愛げや親しみを感じさせるように、

ちょっとした無駄がその人間を面白くさせるのかもしれない。

そんな事を思ったので備忘がてら書き残しました。


全然関係ないけど、冒頭の方の「一人で勝手にスッキリしている」ってフレーズはリズムがよくて好き。