〈デザインってなんだ?〉
大学生の時に初めて、仕事としてデザインや絵を描かせてもらった。
私は描くといっても紙に筆記用具でしか描いたことがなかったし、専門的に学んでない素人だし、何をどうすれば良いのか全くわからない。そんな状態で初めての仕事となった。ご一緒させていただくシステム会社のFさんから「パソコンで絵を描けるようになったほうが良い」と勧められ、教えてもらいながら何とか、手描きベースの絵をデータ化できるようになった。
びっくりするほど知らないことだらけの私には、フォルダの作り方から始まり、ファイル名を半角英数字で保存日時を入れて保存すると便利とか、ラフをプレゼンするときの書面では案と案の隙間を等間隔にするとかその揃え方とか、初歩の初歩から教えていただきながらやっていた。(そんな状態の私にお仕事のチャンスを恵んでくれた方には感謝してもしきれない)
そのFさんとは数回対面で打ち合わせる以外は、もっぱらメールのやりとりだった。筆まめな方で、業務連絡以外のデザインに関することもメールで教えてくれた。
「デザインにはすべて意味があります。なぜそのフォントを使うのか、なぜロゴのPの縦棒だけを長くしたのか、なぜその色にしたのか。見た目の問題だけではなく、全てに意図があってそうしています」
有名なところでいうと、例えば、Amazonのロゴ。
ニコッとした顔に見えるがよく見ると口に当たる部分が矢印だ。矢印はAから向かってzを指していて、つまり「AmazonにはAからZ、すべてのあらゆる商品を取り揃えていること」を意味している。このように、良いデザインには情報が詰まっていると言うのだ。
Fさんのメールを受けると私なりにその内容を噛み砕き、返信で自分が言いたいことを適切な言葉にするため辞書を引く。だいたい長文になった。ある時、メールに
「たんかめさん、デザインて、人を幸せにするためにあるんだよ」
と書かれていた。その時ちょうど、ダイエット中の私が0kcalのブラックコーヒーだと思い込んで缶コーヒーをジャケ買いして失敗したところだった。飲んだあと裏の成分表示を見たら「9kcal」とあり、少量ミルクが入っていたから憤慨していたのだ。「紛らわしい、こんなんパッと見ブラックコーヒーじゃん!9kcal摂取するなら飲料じゃなく飴舐めるわ!」と心の中で叫んでいた。
私は缶のデザインにこんなに怒っているのに、デザインが人を幸せにするってどういう意味だ?人を惑わすためにデザインがあるわけではない?怒らせるためでもない?改めて、私を9kcal分太らせたその缶コーヒーを見た。デザイナーが、なぜこんな一見ブラックコーヒーぽい仕上がりにしたのか考えた。
落ち着いて改めて見たら、ちゃんと、白い、ミルクを感じさせる模様がちりばめられていたのに気づいた。缶の色は全面黒色だと感じていたが実は上部に白いライン、下部に白い格子柄があるし、黒基調を邪魔しない程度にさり気なく「with milk」って書いてある。ちゃんとミルク入りを仄めかせていたデザインだった。やられた。だまされたと思ったときは悔しかったけど、あとから手品のタネをあばくように感じ取る作業は楽しかった。こんなに人を惑わせといて缶コーヒーの名前が「STRAIGHT」かよ!と突っ込んだ。
「たんかめさん、デザインというのは『解釈』だと思うんですよ。」
解釈、ですか?絵が上手いとかセンスがあるだけじゃ成り立たないですか?
「センスというより『理解』ですね。どう感じたか?を定着したものが作品ですね。どう受け取ってほしいか?までを含めるとかなり良いものになります」
メールの表現にハッとすることが多い。「Fさんて思考を言葉に変換するのがすごいですね。いつもビタッと合う言葉で言い表していて」と返事をした(立場が上のひとに対して不躾な物言い)。
「システムを作ったり、クライアントと打ち合わせをするときに使うツールは結局、"言葉"なんですよね」
ほほう。豊かな語彙を手に入れれば、インプットのための『理解』が深まり、アウトプットのための『説明』『表現』がレベルアップするのかな?
じゃあ、会話ってデザインみたいだと思った。心の中で考えている形のない物を「言葉」に当てはめて、自分以外の他者に発する作業。(その受け手は自分である場合も多いけど)
「良いと思います」「それ最高です」「大賛成です」「こういうのを待っていました」「○○の部分が良い、△にするのは自分では思いつきませんでした」
良いと思ったとき、どれを使おう?この作業は、言葉のデザイン。デザイナー(私)の力量(表現力)によって、商品(自己像、アイデアへの見方)が変化する。相手に与える印象が変わる。だから私はもっと、使える語彙を増やしたいのだなぁと思った。的確に感情を伝えるために。
私はそれまで趣味として、自分の満足のためだけに絵を描いていた。一方でデザインは、受け取り手がいる。受け手に意図を誤解なく伝えたり、分かりやすく表現したり、受け手に感じ取る楽しみをゆだねたり。時には仕掛けをしのばせて、無自覚に行動を促すことだってある。
ひょっとすると、"好きなこと"も人生が仕掛けた大掛かりなデザインかもしれない、と思う。未来の自分が、こどもの頃の自分が引っかかるように所々に仕掛けをしているのではないか。
私の場合、幼いころからの趣味や興味は、お絵かき、演劇、文通、作文、書道、接客、社会心理学など。どれも"好きなこと"だったけれど、自分が乳幼児育児をしている時だけ、それらに情熱を全く感じられなくなってしまって愕然とした。好きだったはずのものがこのまま無くなって、この後"好きなこと"に没頭できないまま寿命が尽きるのかなと思ってショックだった。
でもそうやって一時期何も感じなくなったことが、実は息をひそめてちゃんと生きていてくれて、子育てが落ち着くにつれまたカチコチと回りだした実感がある。しかも、かつては小さな点だったものが、年月をへてつながり絡み合って、多少なりとも血肉になっていると感じる。意外な場面で役立つこともあるし、充実の源にもなっている。
"好きなもの"って、一生大事なんだ、付き合っていけるものなんだ。それに気づけて嬉しい。未来の私が「こっちおいで」と呼んでいる気がする。人を幸せにするデザイン。
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